成道会の流派「玄制流」とは

成道会と「玄制流」の関わり

 成道会を創立する前、成川哲夫創師は、「玄制流」を流派とする日本空手道玄制流拳栄会で綾瀬貞男先生に師事し、鍛錬を重ねました。
 綾瀬先生の下で空手道の奥深さに魅せられた成川創師は、新たに成道会を創立する際、「玄制流空手道」を原型に従い出来る限り忠実に技術・精神の両面で継承し、組織として永続的に普及・発展させていくことを理念の第一に掲げました。
 成道会はその理念に基づき、成川創師の下で「玄制流空手道」を実直に続け、平成9年(1997年)には「玄制流」の流れを汲む団体として「国際空手道連盟玄制流成道会」に改称しました。
 平成20年(2008年)、玄制流創始者・祝嶺制献最高師範の意志を継承する三代目・祝嶺制献氏の下で、「玄制流空手道」を学び続けた世界中の同志による初の世界大会「第1回玄制流世界空手道選手権大会」が開催されました。
 成川創師は、この世界大会で大会副会長と実行委員長の任を全うし、玄制流空手道の普及と発展に成道会として組織的に携わりました。





成道会の流派「玄制流」の歴史

 玄制流空手道の創始者、祝嶺制献最高師範は大正14年(1925年)沖縄県名護市に生まれ、佐渡山安恒先生、岸本祖孝先生に師事、空手を学びました。
 特に恩師である岸本先生は空手の技をことごとくマスターし既に奥義を体得しており、その鍛錬方法は「一技一事主義」を徹底、一つの技を完全に修得するまでは次の技は絶対に教えなかったと伝えられています。岸本先生は口癖のように、「訓練は、つぎの訓練と関連して一歩前進し、技はつぎの技に関連させて一歩向上する。だから、つぎの技にありつくようにいまの訓練、一事に徹底しなければならない」と説いていたと伝えられています。
 第二次世界大戦末期(1945年)には、祝嶺最高師範は海軍特攻隊「菊水隊」に配属され、出撃の内命をも受けていました。しかし、終戦の訪れと共に再び「生きる」機会を与えられ、戦後は郷土沖縄の山中に籠もり、ある時は無人島に身を置き、大自然との共生と挑戦の中で鍛錬に励み、「海老蹴り」「斜状蹴り」「半月当て」といった独特の技を生み出しました。訓練に訓練を重ね、逆境に向かう戦中の体験と幼い頃から空手家としての修練を続けていた祝嶺制献最高師範の「攻防」への試案と探究、そして実践への試行錯誤が「玄制流」創始への原点となりました。
 琉球伝来の空手には、技法面で優れた点が多いものの、全体的に段階を経て、系統立って作られておらず、訓練や指導上の難点がありましたが、玄制流はこれらの欠点を思いきって改善し、独自の「天位の型」「地位の型」「人位の型」「三才の型」等を創造して指導し、空手界に新風を吹き込みました。
 玄制流の型のなかには、手足の攻防技だけでなく、胴体を操作したあとに施す新術技が導入され、従来の空手では見られなかった新しい術技の展開がおこなわれました。胴体の操作を「体軸の変化」として、一次元・二次元に限定された空手の狭い動きから、三次元の立体的な運動空間での攻防にも通用する技として一つの完成を果たしました。
 祝嶺最高師範は、昭和37年(1962年)に新たな武道「躰道」を創始し、昭和39年(1964年)には『新空手道教範』を発刊されました。この発刊以降、門下生により『新空手道教範』に基づく体系立った「玄制流空手道」の指導が開始されることとなりました。
 平成13年(2001年)11月26日、祝嶺制献最高師範は玄制流空手道と躰道の創造と発展に76年の生涯を捧げ、永眠されました。